忘れてはいけない5月24日

大塚──令和元年5月に、業務改善命令を受けるわけですが、当時はどのような感じでしたか。

髙橋理事長──以前の経営は、成果主義、とにかく成長を目指すということが最優先でした。 全国に254信用金庫ありますが、3年間で3000億円以上、融資を伸ばしました。2~3年で255番目、256番目の信用金庫を新たにいくつも作ったような伸長率でした。ただ、厳しい競争環境の中で、成長を続けることは、簡単ではなく、いつしか、すべてに数字が優先するようになり、審査体制や監査、ガバナンスなどの異常さについて、監督当局より、業務改善命令を受けることになってしまいました。
本来あってはならないことであり、多くのお客様や金融業界、近隣信用金庫、そして働く職員の皆さんへ多大なご心配とご迷惑をおかけすることとなってしまいました。

行政処分を受け、理事長と専務理事に退任をいただき、私が理事長になったわけですが、6年前の5月24日、あの日、謝罪の記者会見で始まったことを絶対忘れてはいけないと思っています。

私の原点はそこにはあります。日銀さんをお借りして記者会見をした時に、記者から髙橋さんは誰に一番、迷惑をかけたと思っているかと聞かれ「働いてくれている職員です」と答えました。自分の将来が不安になるような、明日にも潰れるような会社にしてしまったことは、本当に申し訳なかったと思ったからです。あの年の新入職員80人の多くが辞めました。
また、翌年の内定者60人のうち、15人しか入庫しませんでしたが、多くの職員は辞めずにいてくれたので、彼らが安心する金庫に戻さなきゃいけないという思いで取り組んできました。元々そんな金庫ではなかったですから。そこが私の経営の原点のひとつであり、人的資本経営に取り組んでいるのも、このためです。
それからもう一つは、貫井志幸元理事長が30年前に決断したお客様支援体制を最後までやってみないと、間違えているかどうかも分からないということです。貫井理事長は、きっと「従来の金融ではない方法で金融機関として生き残る矛盾を解決する方法を考え抜く」ということが言いたかったんだと思います

3年前、新たに定めたパーパスや人的資本経営も、様々なプラットホームの運営も、店舗施策も、地域商社の設置もスタートアップへの投資も全て論拠はそこにあります。

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